2023年11月4日土曜日

バッハ:ゴルトベルク変奏曲の楽譜(2)


各変奏曲末尾のフェルマータの有無について

                〜不規則な配置の謎


1 ヘンレ新版について


 今回から5種類の楽譜について比較検討をする予定だったが、ヘンレ版の最近の版を見ると、改訂されていたのがわかり、急遽このヘンレ新版(以前のをヘンレ旧版と呼ぶ)も比較対象に加えることとした。そこで、まずこのヘンレ新版の概要について簡単に述べておこう。


 発刊年度は一切記されていないのでわからない。しかし、ヘンレ社のホームページアドレスや、アプリ(このアプリが凄い!)のロゴが記載されているので、最近の発刊だということがわかる。

 前書きと注釈については、記載方法の変更があるものの、内容については旧版と全く同じだ。旧版と異なる点は、装飾音演奏法一覧表が新たに掲載されたことくらいだ。

 楽譜の紙面割りの配分、ページは基本的には旧版と同じだ。いくつか旧版から音の変更があるが、これについてはあらためてレポートする。


 大きな変更点は、旧版は、各変奏曲末尾のフェルマータの有無をオリジナルのシュミート版にならって付加していたが、新版では第6変奏曲を除く全ての変奏曲末尾にフェルマータを付加したことだ。この付加変更については、注釈等では一切触れていない。

 そこで、今回はこの各変奏曲の末尾に付加されているフェルマータの各版の扱い方について探ってみよう。



2 各版のフェルマータの位置について


 さて、このフェルマータの扱い方は、オリジナルのシュミート版によると、バッハがフェルマータを付加しているのはすべてではないこと、さらに、フェルマータのない変奏曲の末尾に、渦巻き模様のマークを付与していることである。

 例えば第1変奏の末尾にはフェルマータが付いている。(譜例1)

【譜例1】第一変奏末尾のフェルマータ

第2変奏の末尾にはフェルマータが無い。その代わりに渦巻模様の印が
付加されている。(譜例2)

【譜例2】第2変奏末尾。フェルマータはない。渦巻模様が付加されている。

しかし新バッハ全集版第2変奏末尾にはフェルマータがついている。

(譜例3)

【譜例3】新バッハ全集第2変奏末尾。フェルマータが付いている。



これをテキスト別にどう付加されているか、整理したのが下記の表である。


変奏曲番号

Aria          

       10 

11   12   13   14  15 

オリジナル版

𝄐      𝄐                   𝄐   

           𝄐          𝄐    

    𝄐    𝄐    𝄐   𝄐

1975年修正版

𝄐      𝄐                   𝄐   

           𝄐          𝄐    

    𝄐    𝄐    𝄐   𝄐

ヘンレ旧版

𝄐      𝄐                   𝄐   

           𝄐          𝄐    

    𝄐          𝄐   𝄐

ヘンレ新版

𝄐      𝄐  𝄐   𝄐   𝄐   𝄐

      𝄐   𝄐    𝄐   𝄐

𝄐    𝄐    𝄐    𝄐   𝄐

新バッハ全集

𝄐      𝄐  𝄐   𝄐   𝄐   𝄐

 𝄐  𝄐   𝄐    𝄐   𝄐

𝄐    𝄐    𝄐    𝄐   𝄐

ウィーン原典版

𝄐      𝄐  𝄐   𝄐   𝄐   𝄐

 𝄐  𝄐   𝄐    𝄐   𝄐

𝄐    𝄐    𝄐    𝄐   𝄐



変奏曲番号

    16  17  18 19 20 

21  22 23 24  25 

2627282930Aria

オリジナル版  

              𝄐  𝄐   𝄐   𝄐

      𝄐         𝄐        

𝄐        𝄐  𝄐  𝄐    𝄐 

1975年修正版

              𝄐  𝄐   𝄐   𝄐          

      𝄐         𝄐    

𝄐        𝄐  𝄐  𝄐    𝄐 

ヘンレ旧版

              𝄐  𝄐        𝄐

      𝄐         𝄐    

𝄐        𝄐  𝄐  𝄐    𝄐 

ヘンレ新版

        𝄐   𝄐   𝄐   𝄐   𝄐

𝄐   𝄐   𝄐    𝄐    𝄐

𝄐   𝄐  𝄐  𝄐  𝄐    𝄐

新バッハ全集

        𝄐   𝄐   𝄐   𝄐   𝄐

𝄐   𝄐   𝄐    𝄐    𝄐

𝄐   𝄐  𝄐  𝄐  𝄐    𝄐

ウィーン原典版

        𝄐   𝄐   𝄐   𝄐   𝄐

𝄐   𝄐   𝄐    𝄐    𝄐

𝄐   𝄐  𝄐  𝄐  𝄐    𝄐



 オリジナル版と1975年修正版を比較すると、フェルマータの付加位置については修正がない。

 ヘンレ旧版では、第13変奏と第19変奏にフェルマータが付加されていない以外は、オリジナル版と同じである。

 それに対して、ヘンレ新版では、第6変奏末尾にだけ付加していない以外は、新バッハ全集、ウィーン原典版と同様、オリジナル版についていないフェルマータを全ての変奏末尾に付与している。

 ヘンレ旧版と新版の、他の版とは異なるフェルマータの位置について、この理由については注釈等で一切説明がない。ひょっとして単なるミスの可能性がある。

 一方、校訂報告のあるウィーン原典版は何を語っているのか、見てみよう。

 第2、3、4、16、21各変奏末尾にオリジナルには無いフェルマータを付けた事について、説明は何もない。第6、7、9、11、23、25、27変奏については「フェルマータは補足された。Fermatas added editorially.」とのみ記載がある。

 このヘンレ新版以降のテキストのフェルマータに対する基本的考え方は具体的説明がないものの、明白だ。それは、本来この作品は、全ての変奏曲末尾にフェルマータがあるべきだが、バッハはそれを失念した、あるいはオリジナル版の印刷原盤を彫塑する段階でフェルマータを付加するのを失念したため、新版を出版する際に校訂して補足をしておいた、という事であろう。つまりバッハのミスを校訂者が訂正、追加したというわけだ。



3 フェルマータの意味について


 この楽曲末尾にフェルマータを付加する習慣は、バッハの自筆譜で確認できる作品では、フーガの最後の音にフェルマータがついている例は多いが、ゴルトベルク変奏曲のように、最後の複縦線上に付いている例は、幾つかあるものの、例は多くない。バッハの時代、フェルマータはどういう意味を持っていたのか。


 ニューグローブ世界音楽大事典(以下NGD)では、次のように説明している。「歴史的かつ最も一般的な意味では、フェルマータはある1声部に対し、拍でなく他の声部に注意を払うようにと指示し、響きを止めたり、次に移る前に全員の用意ができるまで待つようにと指示する記号である。コラール、ダ・カーポ・アリア、変奏曲などでは、楽句、楽節、または作品全体の終わりを示すために使われる。(中略)独奏者用の楽譜では、この記号は即興的なカデンツァが要求されていることを示す。その際、伴奏部におけるフェルマータは、独奏者が演奏を終わるまで待つことを示す。(中略)イタリア・オペラのテノールの高い音符に付された場合のように、音楽の種類を問わず、拍の延長を示す場合もある。」(同事典第14巻P.534)


 NGDの説明から、ゴルトベルク変奏曲におけるフェルマータの意味は「楽句、楽節、または作品全体の終わりを示すため」に使われているとも考えられる。各変奏曲の終わりを示している、と意味付ければ、新バッハ全集版等が全ての変奏曲末尾にフェルマータを付加しているのは不思議ではない。

    なお、昨今のバッハ演奏におけるフェルマータの扱い方の変遷については、今は廃刊となったレコード芸術誌2023年3月号の舩木篤也氏の連載記事、コントラプンクテ第20回で「違和感のゆくえ〜バッハのフェルマータに思う」で簡潔に記されているので是非一読をお勧めする。



4 ゴルトベルク変奏曲でのフェルマータの意味〜2つの研究について


(1)ドン・O・フランクリン氏の説


 これに対して、当然、オリジナル版の不規則なフェルマータの位置を重要視する立場の研究者がいる。1975年修正版でも、このフェルマータについては全く修正されていないことから、これには意味がある、と考えるのは当然だ。しかも、音符上ではなく複縦線上に付加されているので、尚更だ。


   これには、まず、小林道夫氏が「音楽と数学」と題したエッセイ(おそらく氏のゴルトベルク変奏曲演奏会でのプログラムノートと思われる。)の中で紹介していた2002年にドルトムントで開かれたバッハ・シンポジウムで発表された、チェンバリストでもある学者ドン・O・フランクリン氏の説がある。

 ただ、小林氏のエッセイでは、「主題や、各々の変奏の終りの複縦線の上に𝄐というマーク(フェルマータ:音を伸ばしたり、時には終止点を示す。)があるものと無いものが一見不規則に並んでいることを解読して、そこからも数の仕掛けを説明していますが、説明が長くなり過ぎて残念乍ら触れられません。」とある。私自身はドン・O・フランクリンの原文をまだ入手出来ていないので、改めて概要を紹介することとする。


(2)Cory Hall氏の説


 もう一点は、BachScholar出版が発刊しているゴルトベルク変奏曲の校訂者の説。楽譜はまだ入手出来ていないが、論文はインターネット上で公開されており、誰でも読める。

 校訂者のCory Hall氏は、2005年に「Bach‘s Goldberg Variations Demystified 」という論文を発表している。

 この中で、Cory Hall氏は、

 「ゴルトベルク変奏曲のフェルマータについて論じている者は、私以外にドン・O・フランクリン 氏がいるが、これを最初に着目し、テーマにしたのは私が最初だ」とまず自分自身の立場を明確にした上で、

 「比較参照したテキストは、オリジナル版と1975年修正版、ペータース版(Kurt Soldan編、1937年)、ヘンレ新版、新バッハ全集である。」

 「フェルマータについては、変奏曲ごとのグルーピングを指示している。(注:例えば表で見ると、フェルマータのついていない第2変奏曲からフェルマータのついている第5変奏曲までが一つのグループを形成する。)

 フェルマータで区切られたグループ内の変奏曲については、各々テンポについて強い関連性があり、休まずに演奏する必要がある。」と述べている。

 そして、メトロノームでその具体的なテンポについて指示をしており、この指示については「私自身の長い演奏活動、教育活動の成果である。」と語っている。

 グレン・グールドの演奏にも触れながら、1975年修正版のポイントについて考察し、さらにこの変奏曲を難易度順に一覧表にするなど、その内容の是非はともかく、興味は尽きない。これについては、次回に詳細を紹介したい。



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