バッハ:ゴルトベルク変奏曲の楽譜(3)
各変奏曲末尾のフェルマータの有無について
〜不規則な配置の謎
1 Cory Hallの説について
(1)フェルマータについて
前回に続き、Cory Hallがフェルマータについて、どう解釈しているかの概略について説明しておこう。以下は全て前回紹介した「Bach's Goldberg Variations demystified」の内容と、この論文に基づいて、2022年にCory Hall校訂のゴルトベルク変奏曲(BachScholar Publishing)の新校訂版が出版され、そのコンセプトの概略がインターネット上で公表されているので、それも含めてまとめたものである。①から⑩まで10項目に整理してある。
①1741年の初版、及び1975年修正版によると、バッハは変奏曲をフェルマー
タか飾り模様(artistic flourish、文末の譜例 参照)のどちらかで区切ってお
り、すべての変奏曲の末尾にフェルマータを付加していない。これは非常に
重要である。
②ほとんどの校訂者および校訂版は、いくつかの変奏曲末尾にフェルマータが
記載されていないことをバッハの見落としと考え、バッハが指示していない
ところにすべてフェルマータを追加している。
③バッハのフェルマータを正確に再現しているのはクルト・ソルダンが編集し
た1937年のペータース版(Kurt Soldan,Peter’s edition )だけである。他の
すべての編集者は、本来あるべきではないところにフェルマータを書き加え
ている。ヘンレ版、新バッハ全集はいずれも正しくない。
④ 変奏の間にフェルマータがなく、artistic flourish が記載されている場合は変
奏の間に連続性があり(グループ化されている)続けて演奏する必要があ
る。この場合、それぞれの変奏はテンポで関連性がある。
⑤逆に、フェルマータで区切られた変奏曲は、続けて演奏する必要はなく、必
ずしも関連したテンポを持たない。
⑥実例を示すと、
例えば、アリアと第一変奏曲の末尾にはフェルマータがあるので、テンポ
の関連はなく、独立して演奏される。
第2変奏曲から第4変奏曲まではフェルマータがない。次に、フェルマータ
が付加されている変奏曲は第5変奏曲である。
つまりこの4つの変奏曲、2〜5変奏曲はグルーピングされていて、続けて演
奏し、また、それぞれ関連したテンポで演奏しなければならない。
という要領で変奏曲全体を整理してみると、下記のようになる。
注)●は単独、あるいはグルーピングを示す。これは筆者が追加したもので
原文にはない。また表示されているテンポは「Bach's Goldberg
Variations demystified」に記載されていたもの。Cory Hall校訂のゴル
トベルク変奏曲(BachScholar Publishing)の新校訂版は参照してい
ない。
●Aria. 四分音符=54
●第1変奏曲 四分音符=108
●第2〜5変奏曲(これらは続けて演奏される、以下同)
第2変奏曲 四分音符=72
第3変奏曲 付点四分音符=56(八分音符=168)
第4変奏曲 付点四分音符=56(八分音符=168)
第5変奏曲 四分音符=84
●第6〜8変奏曲
第6変奏曲 付点四分音符=48 (八分音符=144)
第7変奏曲 付点四分音符=64 (八分音符=192)
第8変奏曲 四分音符=96
●第9〜10変奏曲
第9変奏曲 四分音符=72
第10変奏曲 二分音符=72
●第11〜12変奏曲
第11変奏曲 付点四分音符=96
第12変奏曲 四分音符=72
●第13変奏曲 四分音符=42
●第14変奏曲 四分音符=84
●第15変奏曲 四分音符=36(八分音符=72)
●第16〜17変奏曲
第16変奏曲 序曲四分音符=63
フゲッタ付点四分音符=56
第17変奏曲 四分音符=84
●第18変奏曲 ニ分音符=96
●第19変奏曲 付点四分音符=48(八分音符=144)
●第20変奏曲 四分音符=84
●第21〜22変奏曲
第21変奏曲 四分音符=42
第22変奏曲 ニ分音符=84
●第23〜24変奏曲
第23変奏曲 四分音符=72
第24変奏曲 付点四分音符=72
●第25〜26変奏曲
第25変奏曲 八分音符=63
第26変奏曲 四分音符=63
●第27〜28変奏曲
第27変奏曲 付点四分音符=48 (八分音符=144)
第28変奏曲 四分音符=72
●第29変奏曲 四分音符=84
●第30変奏曲 四分音符=72
●Aria. 四分音符=54
⑦こうして全体像を見てみると、第16変奏と第17変奏を中心点として、その両
側に3つのシングル(ともにフェルマータを持ち連続性がない変奏曲13/
14/15と18/19/20)、4つのグループ(テンポが明確に異なる4つのグ
ループ9-10/11-12と21-22/23-24)がある。
ここまでのバッハのプランは2-2-3-2-3-2-2、つまり
2(9-10)-2(11-12)-3(13/14/15)
-2(16-17)中心部
-3(18/19/20)-2(21-22)-2(23-24)
と完全にシンメトリーとなっている。
⑧ ここから更に左右の外側に向かうと、左側には6-7-8という3つの変奏のグ
ループ、右側には25-26という変奏のペアがある。どちらのユニットも「遅
い-速い」進行を示し、第6変奏曲のゆったりとしたテンポは、第7変奏曲
の "al tempo di Giga "で2倍速になる。これは第8変奏曲へと継続される。
同様に、第25変奏曲の "adagio"は、2倍速にスピードアップして、第26変
奏曲へ続く。
なお、バッハが1975年修正版で、第26変奏曲に表情豊かなアポジャ
トゥーラを加えたことは、第26変奏曲は最も速くてもテンポは中程度で、第
25変奏曲より4分音符の速さで2倍速い程度であり、19世紀のエチュードの
ように極端に速いプレステッシモのテンポではない。
⑨更に左右の外側に進むと、左の2-3-4-5の1ユニット4変奏群と、右の1ユ
ニット27-28の2変奏群がある。この前⑧の "遅ー速"ユニットが ほぼ1:2 の
テンポ進行で構成されているのとは対照的に、この2つのユニットは8分音符
と16分音符が終始等しいテンポ関係を示している。
変奏曲2-3-4-5は一定の8 分音符の速さで統一される。(ただし、第2
と第3変奏の速さについては次の項参照。)
変奏曲27-28では、第28変奏曲のテンポが2倍速いかのような錯覚を与え
る。しかし、この対の8分音符と16分音符の速さは変わらない。
⑩更に外側に進むと、2つのシングル(1と29、30)とアリアがある。もし第2
変奏曲にフェルマータがついているとこのシンメトリーは完璧となる。最初
のグループ内での第2・3変奏曲はテンポに関連性がない事から、従って
バッハはここだけフェルマータをつけ忘れたのに違いない。なぜなら、そう
するとこのシンメトリーは完璧となるからだ。
以上が10項目が、Cory Hallによるゴルトベルク変奏曲におけるフェルマータの意味の概略である。詳細を確かめたい方は、オリジナルの論文をお読みいただきたい。
フェルマータの有無について、これをどう解釈するかは、いまだに決定打がない。新バッハ全集等のようにすべての変奏曲にフェルマータを追加するのも一つの解釈だが、もちろん、これが正しいとは断言できない。
一方で、今回紹介したCory Hallの説はそれなりの説得力があるが、しかしながら、⑩で第2変奏曲にフェルマータがあれば完璧だったのだが、と述べているのは、結局このCory Hallの説も完璧ではないことを示唆している。
ただし、第2変奏曲の末尾にはフェルマータがないと同時に飾り模様(artistic flourish )も付加されていない(譜例1参照)。これからCory Hallが、バッハがこの第2変奏曲にフェルマータをつけ忘れた可能性がある、と言っているのは、一理ありそうにも思える。
なお、各変奏曲のテンポについては、すべてピアノで演奏することが前提となっており、チェンバロ等の時代楽器は考慮されていない。
【譜例1:第2変奏曲、飾り模様無し】 |
【譜例2:第4変奏曲、飾り模様あり】 |