2023年6月19日月曜日

 ウクライナのフランツ・リスト

「ヴォロニンツェの落ち穂拾フランツリストの作品と生涯(1


 

【1847年のリスト/リスト博物館HPより】



 フランツ・リスト(1811〜86)

作品に「ヴォロニンツェの落ち穂拾Glanes de Woronince Gleanings from Woronince」というピアノ曲がある。

 184748年の作曲で、「ウクライナのバラード(ドゥムカ)Ballade d'Ukraine (Dumka) 」、「ポーランドの歌Melodies polonaises 」、「訴え(ドゥムカ)Complainte (Dumka)」の3曲の小品から構成されている。演奏時間が20分弱の、哀愁に満ちた名品である。

 ヴォロニンツェとは、ウクライナの都市で、首都キーウの南西約240キロの、北緯 49  40 分、東経 28  10 分に位置し現在はVoronivtsi と呼ばれている。リストは1847年、ここに滞在中にこの作品を書き綴った。


  ウクライナはリストの後半生を運命付けた国だ。当時、華々しい演奏活動を続けていたリストはコンサートツアーのために、1847年1月に厳寒のウクライナの首都、キーウに到着した。

【ウクライナ。日本ウクライナ友好協会HPより】
次のHPでのウクライナの地図がより詳細。https://www.mapple.net/articles/original/16295/





















 
 この年の9月までに、リストはウクライナ国内では、キーウ(3回のリサイタル、1月から2月にかけ滞在)、リヴィウ(不明、4月)、
チェルニウツィ(2回、5月)、ジトーミル、ネムィーリウ、ベルディチフ、クレメネティ(この4都市は、春から夏にかけて。詳細は不明)、オデーサ(10回、6〜8月)、そしてリスト最後のリサイタルとなったエリザベートグラッド(現在はキロヴォフラードと呼ばれている、9月)の各地でコンサートを行っている。
(都市名の中にはウクライナ読みを調べ切れなかったものもあります。)
 この間、一時期トルコに渡り、コンスタンティノープル(67月)でコンサートを行っている。当時としても、リストだけが実施出来た異例の長大なコンサートツアーだ。
 
 リストは2月のキーウのリサイタルで、1848年以降ワイマールで生活を共にすることになるカロリーネ・フォン・ザイン=ヴィトゲンシュタイン侯爵夫人と出会った。
 かつ9月のエリザベートグラッドの演奏会で、コンサートピアニストを引退することを宣言した(ギャラをもらうためのプロフェッショナルのピアニスト活動はもう行わない、という意味で、サロンなどでの公開演奏は引き続き行っていた)。リスト激動の年である。
 
 侯爵夫人はヴォロニンツェ在住で、ウクライナ中部に広大な土地を所有し、万人以上の農奴を所有する途方もなく裕福な地主だった。夫人の父はポーランドの大地主で、1844年父の死後、その莫大な遺産を相続していた。1836年、17歳でロシア騎兵隊隊長と結婚し、一時期キーウで結婚生活を送っていたが、数ヶ月後に故郷ヴォロニンツェに戻り、そこで一人娘が生まれた。リストと出会った時、結婚生活は破綻し別居生活を送っていた。

 キーウへは仕事(夫人は敏腕穀物商だった)で来訪していた。リストの素晴らしい演奏会が話題となっていたので第2回目を聴きに行き、(この時のプログラムを夫人は1887年のその死まで手元で保存していた。現在はワイマールリスト博物館にある。)夫人はリストの慈善活動のために匿名で寄付金を贈呈し、リストは夫人を探し当て、そこで2人は運命的出会いをした。

 夫人は1847年3月と10月にヴォロニンツェの自宅にリストを招き、3月は10日間だったが、10月には数ヶ月長期滞在し、ここで2人の将来について語り合った。

 この時、リストはウクライナ滞在の思い出として、「ヴォロニンツェの落ち穂拾い」を書き始めた。


 1曲目の「ウクライナのバラード(ドゥムカ)」は、古いウクライナの民謡「行かないでよ、フルィーツィさん」による変奏曲。 

【マルーシャ•チュラーイ】
Wikipediaより

 

 この民謡は17 世紀のウクライナの歌手・詩人で多くのウクライナ民謡の作者とも言われ、美女だったと言われている、マルーシャ・チュラーイMarusia Churay 1625?〜53)の作によるもの。 Alan Walkerによると、『この民謡のフルタイトルは「フルィーツィ Hryts)よ、今夜のパーティーに行かないで」。伝説によると、フルィーツィ  2 人の女性に愛されていた。 その人がマルーシャ自身。 マルーシャは恋人を共有することを拒否し、彼を殺すことで解決しようとした。

 詩は次の様に歌う。日曜日に、彼女は有毒なハーブを集めた。 月曜日に彼女はそれを洗った。火曜日に彼女はそれを調理した。 水曜日に、彼女はそれをフルィーツィに提供した。 そして木曜日に彼は亡くなった。歌は、フルィーツィがマルーシャのライバルの女性に会うためにパーティーに行くことに対してへの警告で始まる。

 マルーシャはこの犯罪のために死刑を宣告されたが、後にコサックの首長ボフダン・フメリニツキーによって恩赦された。』

 当時、リストはこの歌の歌詞を知らなかったのか、作品そのものに悲劇的様相はなく、哀愁を帯びた作風となっている。リストはおそらく、ウクライナのどこかの街で農民たちが歌っていたのを聞いたのであろう。 


 2曲目の「ポーランドの歌」では、2つのポーランド民謡が引用されている。

 最初の曲は、リストがヴァイオリンとピアノのためのデュオ ソナタ(写本が1950年代にワイマールで発見され、初めてその存在が知られるようになった。それには1835年の記載がある。)でも使用されている。またもう一曲は「乙女の願い」としてショパンの歌曲集(ショパンの死後1856年に「17の歌曲集」として出版。「乙女の願い」は1829年に作曲された。)の中にあり、かつリストが1857年にピアノソロ用に編曲して、とても有名な作品だ。

 年代的にも、リストがこの2曲をウクライナで聞いて知ったとは考えづらい。おそらくカロリーネ侯爵夫人の出自がポーランドの大地主であるため、彼女へ敬意を表して、既知のポーランド民謡の旋律をここに挿入したと考える方がいいようだ。

 なお、黒川祐次著の「物語ウクライナの歴史」によると、19世紀のウクライナはドニプロ川を中心にして、右岸と左岸に分かれ、右岸地方(西側)は政治的・行政的にはロシア人の支配下にあったが、ロシア人はほとんど住んでおらず、ポーランド人領主が土地を支配していた、とのこと。右岸のヴォロニンツェに住むカロリーネ侯爵夫人もその1人だった。


 3曲目の「訴え(ドゥムカ)」は、Alan Walkerによると、近年の研究で、この歌詞と旋律は、近代ウクライナ文学の創始者であるイヴァン・コトリャレーウシキー(1769-1838)が創作したものである、としている。

 しかし、この「訴え(ドゥムカ)」の成立には次のようなとても印象的な逸話が残されている。


【バンドゥーラ 民音楽器博物館HPより】

 『18471月、リストが初めてキーウに到着した日、彼は最初のリサイタルの演奏会場となっている、市の証券取引所のコントラクト ホールにでかけ、短いリハーサルを終えた後、彼は物売りの農民でいっぱいだったキーウの古い市場を通ってホテルに戻ることにした。 雪が降り、厳しい寒さだった。

 リストはスタイリッシュなイングリッシュコートにシルクハットをかぶり、エナメル靴を履いていた。キーウの農民たちは、奇抜なファッションの彼を奇異の目でじっと見つめていたが、リストは彼らの詮索好きな視線を無視した。彼の目は別のものに注がれていた。 

 壁のそばに座っていたのは、リストがこれまで見たことのない多弦楽器であるバンドゥーラ(ウクライナの民俗楽器。フレットのないネックを持つ卵形のリュート族楽器。)とその上に身を屈めた白髪の老人だった。その隣には、彼の孫娘である黒髪の美しい少女が立っていて、老人の伴奏に合わせて悲しいウクライナの歌を歌っていた。 その少女は盲目で、彼女の歌は見物人に強い印象を与えた。


風が吹き、木々が揺れている。

なんて悲しいのだろう。それでも私は泣くことが出来ない。


    歌が終わると、老人は帽子を脱ぎ、見物人はそこに小銭を投げ入れた。 しかし、リストはウクライナの通貨に交換する時間がなく、銀行為替手形しか持っていなかったため、両替するために急いでコントラクト ホールに引き返した。市場に戻ると、老人と少女の姿は見えなかった。リストは周囲の人々に彼らの所在を尋ねたところ、すでに住居に帰ったのだろう、と言われた。

 リストは盲目の少女の歌った悲しい歌のイメージに悩まされ、次の2時間、ドニプロ川の凍った岸辺を逍遙歩き、この音楽を振り返った。その夜のリサイタルで、彼はこの歌を即興で演奏し、「ウォロニンスからの落穂拾い」の終曲、ドゥムカが生まれた。』


 この見事な逸話の真偽の程を確かめる方法を今持たないが、リストがこの歌をキーウの街中で聞いて、それをリサイタルで即興演奏のテーマとして用い、それに基づき、「訴え(ドゥムカ)」を完成させたのは、間違いないだろう。


 この「ヴォロニンツェの落ち穂拾い」はカロリーネ侯爵夫人の一人娘のマリーに捧げられている。当時10歳だったマリーは192083歳まで生き、リストの最初の作品全集(190736年にかけ出版、しかし34巻で頓挫してしまった)の資金を提供した。

 リストには当時、愛人のマリー・ダグー夫人との間に生まれた3人の子供たちがいたが、別居をしていた。そのため、特にこのマリーを自分の子供のように可愛がったのに違いない。

 当初、マリーは子供心に、リストは自分の夫となる男性で、そのために母親が連れてきたのだろう、と信じていたようだ。それが実は、母親が自分の夫にしようとする男性だとわかった時の驚きは想像を絶するものがある。

 

 修正加筆のプロセスがよくわかる自筆譜(ニューヨークの モーガン図書館Pierpont Morgan Library )が残っていて、インターネット上で誰でも見ることが出来る。


 レコーディングの数は多いが、派手な演奏ではない方がこの作品に相応しい。フランス•クリダがいい。


参考文献 

  1. Walker, Alan (1987), Franz Liszt: The Virtuoso Years, 1811-1847, Alfred A. Knopf 
  2. Walker, Alan (1989), Franz Liszt: The Weimar Years, 1848-1861, Alfred A. Knopf 
  3. Walker, Alan (1997), Franz Liszt: The Final Years, 1861-1886 Cornell University Press
  4. エヴェッレットヘルム/野本由紀夫訳「リスト」音楽之友社、1996
  5. 黒川祐次「物語ウクライナの歴史」中央公論新社、2002